生い立ち
生まれ (1974)
- 両親は共に和歌山市出身で、和歌山市の病院で生まれた。
- 1 歳上の姉と 3 歳下の弟がいる。
- 父親は製薬会社の営業で、典型的なサラリーマンの家庭であった。
- 両親は、良くも悪くも教育に無関心で、勉強を強要されなかった一方、熱心さもなく、また、身近にロールモデルとなるような人もいないまま、なんとなく育った。
幼少期 (1974-1981)
- 4 歳頃まで兵庫県姫路市に住んだ。
- 生き物の図鑑が好きで、とくに魚の名前は、幼稚園に入る前にほとんど全て覚えた。
- 友だちと遊ぶより、一人でダンゴムシやセミをとるのが好きだった(らしい)。
- その後埼玉県上福岡市に移住した。
- 近所の沼地(寺尾遊水地)でザリガニを釣ったりカマキリや(ウシガエルの)オタマジャクシをとったりした。
小学校 (1981-1987)
- 小学 3 年から奈良県奈良市に移住した。
- ドッジボールに熱中し、小 5 からバレーボールを始めた。
- 成績は 2 番手(40 人中 5-10 番目くらい)だった。
- 掃除を頑張っていた(さぼる人が嫌いだった)。
- 釣りが好きになり、近所のため池でフナを釣ったりした。ブラックバスのルアー釣りも少しやった。
中学校 (1987-1990)
- 地元の公立中学校に進学し、バレーボール部に入部した。
- 入学時の身長は 160cm ちょうどだった。その後中 2 で 170cm、中 3 で 180cm まで伸びた。
- 成績は、変わらず 2 番手(40 人中 5-10 番目くらい)だった。中 3 の夏頃から塾に通って成績が伸びたが、内申点が足りないと言われ、奈良県内の 2 番手の公立進学校を受験し、合格した。
高校 (1990-1993)
- 県内では文武両道で知られる(山上徹也と同じ)奈良県立郡山高校に進学した。
- 入学時の身長は 183cm だった。その後高 2 で 186cm、高 3 で 188cm まで伸びた。
- バレーボール部に入部し、全力で取り組み、高 2 で県ベスト 4、高 3 でも県ベスト 4、さらに個人的にも強化選手に選抜されるなどした。
- 成績は、変わらず 2 番手(40 人中 5-10 番目くらい)だったが、高 3 の 6 月で部活を引退し、その後塾・予備校に頼らず猛勉強し、奇跡的に現役で東大理科二類に合格した。
大学 (1993-1998)
- 上京して一人暮らしをはじめた。2 年から本郷キャンパスのすぐ横に引っ越した。大学生活に関して、事前に全く情報がなく、要領も分からず、手続きなどに戸惑いつつ、思いつくままにいろいろな講義に出席した。頭がついていけず、意欲の割に成績は低迷し、進学(進振り)に影響した。
- バレーボール部に入部し、週 4 日の練習に打ち込んだ。1 年生の終わりからレギュラーに入り、また仲間に恵まれ、リーグ戦で昇格するなど実績を残した。入学時 189cm の身長が 190cm まで伸びた。
- 社会のことを何も知らずにいきなり大学に入り、幅広く講義を受けたが全くついていけず、もがくうちに新書の存在に気づき、図書館や生協書籍部で様々な新書を手に取り、様々な社会の問題を知った。
- 進振りの点数の問題もあり、理学部地学科地理学課程というマイナーな学科に進学した。屋外の実習が多く、面白かったが、学科の建物の中にあった計算機端末室の Unix(X 端末)に触れて衝撃をうけ、それ以後授業と実習はほとんどさぼり、バイトと部活以外の時間はほとんど Unix に没頭する生活が 2 年ほど続いた。
- Unix とインターネットとオープン・ソースと OS に目覚め、FreeBSD のコミュニティー(ML・ネットニュース・IRC)に参加した。一貫性を好み、またコミュニティーが小さい NetBSD に移って活動を始めた。
- 部活と Unix にのめり込みすぎて学業が疎かになり、1 年留年してしまったが、なんとか卒論を提出し、また、環境問題(環境経済学)を学ぶため、東京工業大学の大学院修士に進学することにした。
- 卒論は、鎌倉市市街地においてアンケート調査をして、地域住民の問題意識をまとめて、解析した。
大学院 (1998-2000)
- すずかけ台にある東京工業大学総合理工学部人間環境システム専攻という、建築と土木が中心の専攻に所属した。院試のため、都市工学なども集中的に勉強した。
- 環境問題や社会工学など幅広く講義を受け、また、環境経済学の教科書を意欲的に読んだが、経済学の知識・理解が追いつかず、研究に行き詰まった。
- 先生が所属する研究機関への内定を約束を後に取り消され、就活にも迷っていたため、Unix プログラマーを目指して就職することにした。
会社員 (2000-2008)
- Unix のハッカーにあこがれていたが、プログラムを書くことすらできなかったため、知り合いを頼って、なんとなく Unix プログラマー見習いとして働き始めた。Perlに詳しくなりたかったので、Perlのマニアックな洋書を抱きながら、毎日寝ていた。NetBSDのpkgsrcに関わっていたため、makeとシェルスクリプトは得意であったが、C言語のプログラムがほとんど書けず、また、業務内でもC言語を書く機会がなかったので、焦りを感じて、組み込み開発ができる会社を探して転職した。
- このとき入社したP社の社長は、ソフトウェアのことは全く分からず、巧みに集めた補助金を使って、研究開発と称して、無謀な開発を繰り返していたが、自分にとっては絶好の機会となり、ほとんど会社に泊まり込んで開発に没頭した。SCoreという国産の並列計算(クラスタ)のオープン・ソースのミドルウェアについて調査し、その上にMPIライブラリを移植するなどした。PowerPCのCPUボードへのLinuxの移植と同時に、InfiniBandという複雑怪奇なハードウェアを使った、並列計算のためのミドルウェアの移植を目指したが、そもそも開発したハードウェアが全く使い物にならず、入社から2年ほどしてから頓挫した。その後雑多な開発をした後、NetBSDベースのネットワークカメラを開発するB社の社長と展示会で話す機会があり、転職の約束をした。
- B社では、ルネサスのSH3/SH4を採用したCPUボードを開発しており、NetBSDを採用していたが、NetBSDプロジェクトに関わっている技術者がいなかったため、NetBSDのバージョンアップや、新規CPUへの移植、オープンソースへのフィードバックなど、充実した開発をしていた。しかし、事情があって、当時仕様策定中のSDIOという技術を使った無線LANデバイスの開発という、野心的なプロジェクトに割り当てられ、ハードウェアの問題も含めて、これが大々的に失敗し、社内で居心地が悪くなってしまった。
- その後ルータを開発するI社に転職し、NetBSDのMIPS64への移植に関わり、また、OCTEONというCPUのデバイスドライバの開発に関わった。周囲にネットワークのエキスパートが多くいて、たくさん学んだ。I社においては、技術者個人としては充実していたが、古株のチームリーダーに嫌われてしまい、居心地が悪くなって退職した。
独立後 (2008-)
- IIJプロジェクト
- 受託
- A-2
- NetBSD XIP
- DaijiMaps